第53代横綱・琴櫻傑將の波乱万丈な相撲人生と孫への継承の真相を徹底解説
昭和の大相撲界において、圧倒的な突っ張りや「ぶちかまし」で土俵を沸かせ、のちに一代年寄としても数多くの名力士を育て上げた第53代横綱・琴櫻傑將(ことざくら まさかつ)。鳥取県倉吉市出身の小さな大巨人とも称されたその足跡は、現代の大相撲ファンや関係者の間でも深く語り継がれています。本稿では、当時の歴史的背景や報道、公式記録に基づき、その波乱万丈な相撲人生、世間を揺るがせた「無気力相撲」の真相、佐渡ヶ嶽部屋での驚異的な指導実績、そして孫・初代琴ノ若(現:琴櫻)への四股名継承のドラマに至るまで、客観的なファクトをもとに徹底的に検証・解説します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:第53代横綱・琴櫻傑將は鳥取県倉吉市出身。数々の試練を乗り越えて1973年1月場所に横綱昇進を果たした。
- 要点2:1972年の「無気力相撲」警告や度重なるケガを家族の存在と周囲の支えで乗り越え、不屈の闘志で土俵に立ち続けた。
- 要点3:佐渡ヶ嶽部屋の師匠として多くの関取を育て上げ、孫である現・琴櫻(初代琴ノ若の長男)へ伝説の四股名が受け継がれる歴史的ドラマを生んだ。
第53代横綱・琴櫻傑將のプロフィールと波乱万丈な土俵人生
琴櫻傑將は1940年11月26日、鳥取県東伯郡倉吉町(のちの倉吉市)に生まれました。本名は鎌谷紀雄(かまたに のりお)。佐渡ヶ嶽部屋に入門した彼は、並外れた足腰の強さと猛烈な突っ張り武器に頭角を現し、昭和40年代の土俵をけん引する大関・横綱へと上り詰めます。
しかし、その相撲人生は決して平坦なものではありませんでした。現役時代は度重なるケガや不調に悩まされ、一時は引退の危機がささやかれるほどの苦境を経験しています。特に大関時代から横綱へ昇進するまでのプロセスにおいては、精神的な重圧と肉体的な限界の狭間で常に戦い続けていました。それでもなお土俵に立ち続けた背景には、相撲に対する純粋な情熱と、家族の存在、そして窮地で差し伸べられた温かい支援がありました。

歴史的波紋を呼んだ「無気力相撲」警告の真相とは
琴櫻のキャリアにおいて、避けて通れない最大の試練の一つが、1972年3月場所12日目に受けた「無気力相撲」の警告です。この日の大関・前の山との一番において、張り手で相手が気絶・転がされた内容が相撲競技監察委員会から問題視されました。
公式記録や当時の状況証拠を振り返ると、前日の貴ノ花戦では二本を差されながらも巧みな櫓投げに仕留めるなど、全力で相撲を取っていた事実がありました。しかし、対戦相手である前の山が翌日から休場し大関から陥落したという結果もあり、琴櫻自身に対する風当たりも強まりました。周囲から引退の噂がささやかれる中、琴櫻は「自分の気持は休場するぐらいのものではない」と気丈に出場を続け、14日目には優勝争いの先頭を行く平幕の魁傑を強烈なぶちかましで一蹴。弟弟子の長谷川の優勝を「援護射撃」する形で果たしますが、場所終盤は無気力相撲の話題一色となってしまいました。
さらに同年5月場所は1勝のみで残りを休場するなど、いよいよ進退窮まったかに見えました。しかし、同じ二所ノ関一門であり懇意にしていた相撲評論家の神風正一との対談によって精神的な救いを得ます。さらに、同年7月場所の直前に生まれたばかりの長女(後の娘婿・初代琴ノ若の妻)の顔が頭に浮かび、「この子が大きくなった時、胸を張れる成績を残しておかなきゃならない」と一念発起。この強い決意が、同年11月場所の14勝1敗での3度目の優勝、そして翌1973年1月場所の連覇と横綱昇進という劇的な栄冠へとつながっていったのです。
琴櫻傑將の足跡と主なキャリアのマイルストーン
ここでは、第53代横綱・琴櫻傑將の生涯における主要な経歴や、歴史的な節目となった出来事を一覧で整理します。
| 時期・年代 | 主な出来事・マイルストーン | 詳細・補足情報 |
|---|---|---|
| 1940年11月26日 | 誕生 | 鳥取県東伯郡倉吉町(現・倉吉市)出身。本名は鎌谷紀雄。 |
| 1972年3月場所 | 無気力相撲の警告 | 12日目の取組を巡り相撲競技監察委員会から警告を受ける。 |
| 1972年11月・1973年1月 | 連覇達成と横綱昇進 | 苦難を乗り越えて11月場所で3度目の優勝、続く1973年1月場所で連覇を果たし第53代横綱へ昇進。 |
| 1990年代初頭 | 「七琴」「佐渡ヶ嶽軍団」の全盛期 | 幕内力士7人を擁し、最大勢力として部屋を牽引。数多くの名関取を育成。 |
| 2005年11月25日 | 定年退職と部屋継承 | 佐渡ヶ嶽部屋を娘婿である初代琴ノ若へ譲り、定年退職を迎える。 |
| 2007年8月14日 | 逝去 | 波乱万丈で情熱に満ちた生涯を閉じる。 |

佐渡ヶ嶽部屋での圧倒的な指導実績と「七琴」の時代
現役引退後、佐渡ヶ嶽部屋の師匠として指導者の道を歩み始めた琴櫻は、独自の厳しさと愛情をもって数多くの優れた関取を世に送り出しました。当初は独立して「白玉部屋」を興す意向を持っていたこともあり、現役時代から内弟子を積極的に集めていた背景があります。
大関として名を馳せた琴風豪規(内弟子)をはじめ、定年退職直後に昇進した琴欧洲勝紀、さらに琴光喜啓司、琴奨菊和弘といったそうそうたる顔ぶれが続きました。また、関脇では琴ヶ梅剛史、琴富士孝也、琴錦功宗、琴ノ若晴將の4人、小結の琴稲妻佳弘などを合わせ、合計22人もの関取を育成する大所帯となりました。
特筆すべきは、自身が師匠をつとめた期間に幕内優勝力士を4人(琴風・琴富士・琴錦・琴光喜)も輩出した点です。1990年代初頭には幕内力士を同時に7人も擁する圧倒的な勢力を誇り、相撲界では「七琴」「佐渡ヶ嶽軍団」と称されて最大勢力として君臨。その指導力と求心力は、日本相撲界の黄金期を支える大きな原動力となりました。
孫・初代琴ノ若への四股名継承に秘められた歴史的ドラマ
1996年、佐渡ヶ嶽親方は愛娘と結婚した当時「琴の若」だった弟子を養子として迎え入れました。そして2005年11月25日の定年退職を迎えた際、部屋持ちの親方が退職すると所属力士が出場できなくなる規定があるため、同日に引退した初代琴ノ若に年寄「佐渡ヶ嶽」を譲り、奇しくも2代続けての本場所途中の部屋継承劇が実現しました。
さらに、この血脈と伝統の継承は次世代へと引き継がれることになります。生前、佐渡ヶ嶽親方は孫の将且(初代琴ノ若の長男)に対し、「大関昇進後であれば『琴櫻』の四股名を継がせてよい」という強い思いを初代琴ノ若に伝えていました。
その言葉通り、将且は2015年11月場所で「琴鎌谷」の四股名で初土俵を踏み、着実に番付を上げて2019年7月場所の新十両昇進を機に「琴ノ若」を襲名。そして迎えた2024年3月場所で悲願の大関昇進を果たします。大関昇進後の1場所を「琴ノ若」の名で務め上げた後、同年5月場所より祖父の名跡である「琴櫻」を正式に襲名。祖父が描いた悲願のストーリーが、孫の手によって現実のものとして結実した瞬間でした。

【琴櫻傑將】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:琴櫻傑將の現役時代の最高位は何ですか?また本名は何ですか?
A1:最高位は第53代横綱です。本名は鎌谷紀雄(かまたに のりお)で、鳥取県倉吉市の出身です。
Q2:1972年に起きた「無気力相撲」の警告とはどのようなものですか?
A2:1972年3月場所12日目の対戦を巡り相撲競技監察委員会から警告を受けた事案です。前日の相撲内容や翌日の対戦相手の休場などが複雑に絡み話題となりましたが、本人はその後不屈の闘志で立ち直り、同年の優勝や横綱昇進へと繋げました。
Q3:孫である現・琴櫻関への四股名継承はどのような経緯で行われたのですか?
A3:生前、祖父である初代佐渡ヶ嶽親方が「大関昇進後であれば『琴櫻』の四股名を継がせてよい」と伝えていた遺志を受け、孫の将且選手が2024年3月の大関昇進を経て、同年5月場所より「琴櫻」を襲名しました。
まとめ:波乱万丈の生涯と脈々と受け継がれる相撲道の本質
第53代横綱・琴櫻傑將の相撲人生は、度重なる試練や世間の逆風を、不屈の精神力と家族への愛情、そして周囲との絆によって跳ね返し続けた栄光の軌跡でした。現役時代に見せた気迫あふれる突っ張りや「ぶちかまし」の精神は、師匠として育て上げた多くの名力士たちに受け継がれ、さらに現代の土俵で活躍する孫・琴櫻へと脈々と息づいています。
客観的なファクトや歴史的背景を紐解くことで見えてくるのは、単なる勝敗の記録だけではなく、相撲道に対するひたむきな姿勢と、時代を超えて受け継がれる血肉のドラマです。激動の昭和から令和へと受け継がれたその魂は、今後も日本相撲界の歴史において燦然と輝き続けるでしょう。 (出典: 琴 櫻 傑 將(Yahoo!ニュース))