第52代横綱・北の富士勝昭の足跡、大関昇格の舞台裏と指導者時代の功績
昭和から令和にかけて大相撲界の黄金期を牽引し、個性派の論客としても圧倒的な人気を誇った第52代横綱・北の富士勝昭。現役時代は華麗な取り口と甘いマスクで「角界のスター」として輝きを放ち、土俵を離れてからは審判部長や広報部長として組織の近代化や厳格な土俵規律を支えました。また、歯に衣着せぬユーモアあふれる解説で多くのファンに愛され続けました。
本稿では、激動の昭和相撲史を駆け抜けた北の富士勝昭の現役時代からの歩みを振り返り、波乱に満ちた大関昇格の裏側や、審判部・広報部での知られざるエピソード、そして白鵬との名言を交えた印象的なやり取りまで、一次情報と信頼できるデータを基に徹底解説します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:第52代横綱・北の富士勝昭は大関昇格当時、まさかの本人・部屋ともに予想外の展開で、紋付や足袋を借り受ける異例の伝達式となった。
- 要点2:審判部長や広報部長を歴任し、激動の時代における協会の要職を支えながら、のちのテレビ解説では歯に衣着せぬ独自の視点でファンを魅了した。
- 要点3:土俵内外での真摯かつ率直な姿勢は、現代の相撲ファンの間でも色褪せない伝説として深く語り継がれている。
北の富士勝昭の基本プロフィールと大相撲における足跡
北の富士勝昭(きたのふじ かつあき)は、1942年(昭和17年)3月28日に北海道旭川市(出生は網走郡美幌町)で生まれました。入門時は出羽海部屋に所属し、のちに九重部屋へ移籍。恵まれた体格と優れた運動神経を活かした突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛けなど多彩な技を武器に番付を駆け上がりました。
現役時代は第52代横綱として数々の名勝負を演じ、土俵上の強さだけでなく、スマートなルックスと抜群のファッションセンスでも世間の注目を集めました。引退後も指導者として、またメディアの御意見番として長年にわたり相撲界の発展に大きく貢献しました。

【徹底解説】予想外すぎた大関昇格の舞台裏と知られざるエピソード
1966年7月場所後に大関に昇進した北の富士ですが、その昇進直前3場所の成績は8勝7敗・10勝5敗・10勝5敗の合計28勝17敗であり、15日制が定着した1949年5月場所以後では北葉山と並ぶ最低の数字でした。当時の番付事情(豊山の一人大関という状況)があったとはいえ、当時の昇進基準から見ても意外と言われる昇進劇でした。
それ故に本人も『まさか自分が大関に昇進するなどとは思っていなかった』ため、昇進伝達式の朝は熟睡しており、部屋の床山から叩き起こされて自身の昇進決定を知らされるというハプニングに見舞われました。出羽海部屋の内部も全く予想していなかったため、協会からの昇進伝達使者を迎える際に必要な紋付や足袋が一切用意されていませんでした。
窮地を救ったのは兄弟子の横綱・佐田の山と、足の大きさが同じだった柏戸です。紋付は佐田の山から、足袋は柏戸から借り受けることで、出羽海部屋での昇進伝達式にようやく間に合わせることができました。さらに、本来立ち会うべき師匠の8代出羽海夫妻も不在だったため、佐田の山が師匠代理を務めるという、相撲史に残る異例ずくめの昇進伝達式となりました。
北の富士勝昭のキャリア年表と主な役職の歩み
力士として横綱に登り詰めた後、北の富士は指導者および役員としても重要な役割を担いました。審判部や広報部、巡業部の中枢で組織の運営に尽力した経歴は以下の通りです。
| 時期・年代 | 主な出来事・役職 | 備考・詳細な背景 |
|---|---|---|
| 1942年(昭和17年)3月 | 北海道旭川市生まれ | 本名は竹澤勝昭。のちに九重部屋(入門時は出羽海部屋)に所属。 |
| 1966年(昭和41年)7月場所後 | 大関昇格 | 直前3場所28勝という異例の状況の中、佐田の山らの協力を得て伝達式へ。 |
| 1982年(昭和57年)前後 | 審判部副部長(役員待遇) | 一度の降格を経て副部長に返り咲き、のちに理事昇格後は長らく審判部長を務める。 |
| 1996年(平成8年)9月以降 | 広報部長・巡業部長を兼任 | インターネット黎明期における広報業務や、巡業の立て直しに奔走。 |
| 2024年(令和6年)11月12日 | 永眠 | 昭和・平成・令和の相撲界を見守り続けた不世出の横綱が波乱の生涯を閉じる。 |

審判部長・広報部長時代に見せた組織改革と葛藤
現役引退後は九重部屋を率いて横綱・千代の富士らを育て上げた実績を持つ北の富士ですが、日本相撲協会の役員としても重責を担いました。1982年の審判部副部長時代には不祥事による降格を経験しながらも復帰を果たし、のちに理事として長年にわたり審判部長を務めました。
その後は新設された広報部長に就任。しかし、のちの2016年のインタビューにおいて「広報らしいことは何もやってなかった。フィルムを提供するなどして、儲けることばかり。当時の協会はそういう考えだった。インターネットを扱える人間も全くいなかったしね」と、当時のアナログな組織運営の限界や自身の葛藤を赤裸々に振り返っています。また、1996年9月には巡業部長だった二子山親方の問題を受けて、自身の退職まで広報部長と兼任で巡業部長の重責も全うしました。
「子供でも分かる」発言の真意:白鵬との緊張感ある関係性
北の富士の相撲解説の最大の特徴は、横綱や力士のいかなる慢心や不自然な態度をも許さない、妥協のない厳正な視点でした。その姿勢が最も象徴的に表れたのが、2015年5月場所12日目の白鵬の取組を巡るコメントです。
当時、横綱・白鵬は大関・豪栄道の首投げに敗れました。土俵際でもつれ、白鵬の右肘が先に土俵外につくという際どい一番であったにもかかわらず、白鵬は取組後に礼をせず、土俵下でぼうぜんと立ち尽くしました。この振る舞いに対し、北の富士は中継内で「物言いが付いたとしても確認程度。子供でも分かるんじゃないですか」と一刀両断しました。
この評は、同年1月場所13日目に白鵬が稀勢の里との同体取り直し一番を巡り、場所後に「あれは自分の勝ち。子供が見てもわかる」と審判批判を展開して協会内外から苦言を呈された直後であったため、自身の過去の発言と矛盾する白鵬の態度を鋭く突いたものでした。忖度のないこの解説スタイルは、多くの相撲ファンの共感を呼びました。

【北の富士勝昭】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:北の富士勝昭の現役時代の得意技は何でしたか?
A1:突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛けなど多彩な技を誇り、スピードと技術を兼ね備えた華麗な取り口で第52代横綱に昇進しました。
Q2:大関昇格時の伝説的なエピソードとはどのようなものですか?
A2:予想外の昇格決定だったため、伝達式の朝は熟睡しており床山に叩き起こされました。紋付や足袋の用意がなく、兄弟子の佐田の山や柏戸から借り受けて伝達式に臨んだという有名な逸話があります。
Q3:引退後や解説者としての北の富士勝昭はどのような評価を受けていましたか?
A3:審判部長や広報部長などの要職を務めた経験に基づき、歯に衣着せぬ鋭い解説とユーモアあふれる語り口で、長年にわたり絶大な人気と信頼を誇る相撲界の顔として親しまれました。
まとめ:昭和から令和まで相撲界を照らし続けた不世出の巨星
北の富士勝昭は、力士としての卓越した実績にとどまらず、指導者、役員、そしてメディアの論客として大相撲の歴史に巨大な足跡を残しました。予想外の大関昇格から始まった波乱万丈のキャリアは、その後の指導や厳格な審判・広報運営、そして愛情あふれる解説へと確実につながっていきました。
土俵の厳しさと相撲道の本質を身をもって伝え続けたその生き様は、2026年現在においても多くの関係者やファンの中で色褪せることなく、日本相撲界の貴重な財産として深く記憶され続けています。 (出典: 北 の 富士 勝昭(Yahoo!ニュース))